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剣術

剣術を極めることは、何も人と争うことにはならず、より世界と調和していく。

限りなく身体運動を極めた先に、天地自然の理を自身が体得した姿がある。

剣術という特殊な技芸の中にも、無限大に広がる世界に遭遇した。

人の可能性をどこまで引き出せるかを剣術において体現するのである。
無住心剣術

江戸時代、一千回にも及ぶ他流試合に一度も敗れたことがなかったという、

桁外れの記録を持つ真里谷円四郎(無住心剣術の三世)

彼の剣術はいかなるものであろうか。

融通無碍の境地に達した彼の言葉は深い。

剣術の極意というものは現代を生きる私たちにとっても、

非常に価値があり、また文化的にもハイレベルな考え方であろう。

そのような高度な意識を、いにしえの武術家が体現していたことを尊敬する。



真里谷円四郎の言葉より抜粋

「当流は、そもそも刀の切れ味とか丈夫さ、バランスなど道具自体の良否に特にこだわるような一般の剣術とは本質的に異なった流儀(非常にすぐれた心法の剣術である)であるから、夕雲開祖以来の教えに背かぬようにして、生まれついたままの純真な赤子の心でもって、種々の分別を離れ、外面に捉われることなく、ただ刀を引き上げて、自然と感ずるところ、落ちるべきところへ刀を落とすだけである。」

「古語(『荘子』内編「大宗師」)に『其の嗜欲深き者は其天機浅し』というが、嗜欲とは人欲であり、天機とは天理である。天理が育てば人欲は消えてゆき、人欲が増せば天理は必ず消える。当流はこの理に着目して常日頃から、剣術は命をかけた勝負の場に立って、人間が本来持っている天理の妙をこの身体を通して発顕させるものであるから、身体の捌きなどは意に留めず、ただ気をもって太刀を使うことを行なっている。すなわち、手に持った太刀は、気に導かれて上がり、また気に従って落ちる。たとえ四方八方まわりを敵にとり囲まれても、この天理の妙に自らをまかせきっているならば、自然と八方の敵の太刀は外れるものである。いわんや二方向や三方向の敵、ましてや、ただ一人の敵と向き合ったならば、簡単に打ち破ることができる。しかも、当流をもってすれば、太刀を持った敵ばかりでなく、弓矢や槍を持った敵が来ようと、意識的にこちらを狙ってくるものはみな外れてこちらの勝ちとなる。また、こちらが太刀を持たず無刀の場合であっても同じことであるし、こちらが槍や薙刀などの長物を持ったとしても、そうした道具にこだわらず自由に勝つことができる。
(中略)
こうした働きが出来るのも、すべて当流に奇妙不思議な教えや修業法があるからではなく、人びとが本来誰も持っている天心を日々常に大事に養い育て、私心を払い意識を洗い捨てるからである。そうすると、人びとがみな、幼児の頃には持っていながら、成長するにつれて、いつの間にかなくしてしまった一物(本来の天心)が、しだいに立ち戻ってきて肉体(赤肉団上)に再び宿ってくる。そうなれば、それに任せて、剣術の命がけの場に立っても、自然と霊妙な働きが生まれて、自由に敵をあしらうことが出来る。これを『八面玲瓏、物外独立の心妙』というのである。そもそも天地は、これ(自然の霊妙な働き)を得て開け、日月星辰もこれによって動いて昼夜をつくり、山川草木、森羅万象、蠢動含霊など一切の天地の働きがみな、この霊妙な働きによって存在している。天地は同根であり万物は一体である。すべて、その霊妙な働きから受け得た自然の性質そのものに任せれば、なにも不足はなく、働きも自由自在である。その不足のない自由なままに手足身体を働かせ、理(天理)に叶うところを修業することが、当流━無住心剣術━の教えの原点である。

参考文献
剣の精神誌―無住心剣術の系譜と思想 (ノマド叢書)甲野 善紀
 
 
 

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歌01: 天もなく、地もなく今を、みことに生きん (ひふみ)

歌02: ふたたびは 来らんものを 今日の日は ただ ほがらかに 活きてぞ たのし (中村天風)

歌03: おもしろき こともなき世を おもしろく (高杉晋作)

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 剣術
江戸時代に発達した無住心剣術の三世、真里谷円四郎。
一千回を超える他流との試合に一度も敗れなかったという、桁外れの記録を持っていた

*真里谷円四郎の言葉*
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